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2009年3月の31件の記事

2009年3月31日 (火)

アメリカの本屋さん

学会に参加した後、夜まで時間が空くときは、その間を利用してサンフランシスコの街を歩きます。

海外の街で僕はいつも本屋さんに寄るようにしているのですが、アメリカは特に世論や思考が本屋に行くとわかるような気がします。

この日はユニオンスクエアから少し入ったところにある大きな本屋に入りました。061

ベストセラーのところには「Wicked」が…。

オズの魔法使いのミュージカルを、悪い魔女の視点から書き出したストーリーです。以前のブログにも書きましたが、このミュージカル「ウィキッド」は僕もとても好きなミュージカルの一つです。

059

ちょうどユニオンスクエアのところにも、こんな垂れ幕がありました。ミュージカルを劇場でやっているのでしょうね。

062 この本屋さんでは、専門書も多く取り扱いがありました。アンチエイジングのサプリメントなどの話を一般向けに書いた本は、違う角度から書かれているので、医者の僕が読んでも参考になりそうです。

仕事関係の本を一通りチェックして、必要なものを購入した後、写真集のブロックに…。

001 ここで僕は自分のために二つ本を買いました。

ひとつはフェルメールの画集。

もうひとつは西洋のお城の写真集。

日本ではなかなか買う機会のないこうした書籍は、眺めているだけで発想の転換につながるのですよね。

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2009年3月30日 (月)

AADで見つけた面白い医療機器

027 028AADのブースを歩いていて、面白い機器を見つけました。これ、なんだかわかりますか?超音波診断装置なのですが、これが指先につけられる携帯型のものなのです。

血管の中に針を刺しているところを echo しているのですが、血管腔に針が入るところがよく見えます。

指先にコンパクトな超音波の発信装置がついているのですが、手触り感と一緒に目で確認できますので、中心静脈カテーテル導入などのときには役立つのでしょう。

太い血管だと、粥状硬化も判断できるようですよ。

029 僕のかけている、このメガネの左目のところに小さなディスプレイがあるのですが、このメガネをかけるだけで上記のものと同じ画像が確認できます。

指先で探すだけで、体内の構造が目に見えるのは画期的でした。

今後、いろいろ応用した使用法が開発されてくると思いますよ。

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2009年3月29日 (日)

米国皮膚科学会の講演 

002 今年は参加者が少ないとはいえ、学会期間中のサンフランシスコは、AAD一色になります。

003 会場もほら。この通り。綺麗なデコレーションですよね。

010_2 会場のところどころにもAADの文字が浮かび上がります。

038 AADは巨大な学会なので、講演会場がたくさんあります。

こんな感じで部屋毎に、垂れ幕がかかっています。

この建物には10室のフォーラムがあったのですが、同時に別棟でも講演があります。

011 そんな中、学会誌を見て、聴きに行きたいフォーラムを探すのです。

もちろん講演も興味深いものが多いのですが、アメリカをはじめとした海外の学会の場合、質問者が長い列をつくることも多く、その質問の中にも核心を突いたものが出てきます。この質疑応答を聞くのも楽しみの一つ。

講演者や施術医師の本音を聞けるチャンスなので、一言も漏らさずに聞き取らなければと、毎回神経を集中させてじっくり聞くのですが、これが結構エネルギーを消耗して、一日が終わるとぐったり疲れてしまうのですよ(苦笑)。

047_2もちろんレーザーのフォーラムにも参加してきました。

写真のこのセッションの講演者は先日ボストンのハーバード大学まで訪ねに行った、レーザーの大御所ロックス・アンダソン。

さすがの集客力でしたよ。

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2009年3月28日 (土)

ナパヴァレー・ワイナリー

010

晴天のサンフランシスコ。 007

この日はナパヴァレーに行くことになりました。

久しぶりのアメリカでの運転です。アメリカの高速道路は車線も多いので、走りやすいですよね。

013 ゴールデンゲートブリッジを走りましたので、お決まりの場所で写真を撮りました。

以前もこの場所に何度か来ましたが、こんなに晴れている日はなくて、眩しいぐらいの陽光でしたよ。

021 サンフランシスコからナパヴァレーまでは2時間も運転すれば着いてしまいます。

023_2 しかも通る道は地平線の見えるような田園地帯。とっても気持のよいドライブコースなのです。

お喋りしながらあっという間にナパヴァレーに着きました。

032酒飲みやワイン好きな人にとってはお馴染み、世界でも有数のワイン産地のひとつとして数えられるナパヴァレー。

多様なマイクロクライメット(微小気候)に恵まれ、カベルネ・ソーヴィニヨンやシャルドネの他に、メルロー、ソーヴィニヨン・ブラン、ピノ・ノワール、カベルネ・フラン、ジンファンデル、サンジョベーゼ・・・等々、様々な葡萄品種が広く栽培されているこの土地は、南北わずか50km。面積で言うと、フランス・ボルドーのおよそ8分の1しかないと聞いて驚いたことがあります。

ワポ族インディアンの言葉で「豊潤の地」を意味する「ナパ」。アメリカというお国柄か、誰でもカジュアルに楽しめるところが僕は好きです。この日のようにお天気の良い日に細かい予定も決めずふらっと出掛け、線路沿いの通りを走りながら、気になるワイナリーが目に留まれば、そこで車を止め散策や試飲、歓談、買い物などを楽しむ。極めて庶民的なところから、予約の必要な高級ワイナリーやマニア垂涎モノのワイナリーなど、幅広く層も厚いところもまたいいんですよね。

この日はちょうど菜の花が満開。気持ちのよい「ワイン日和」となりました。

033_2こちらは初めて来たワイナリー。

037 さっそく試飲です。素晴らしい味でしたが、このワイナリーでは購入には至らず。

ワイナリーにいくつか立ち寄っていると、ちょっと酔っ払ってしまいます。もちろん試飲後は運転は代わってもらいましたよ(笑)。

042そしてワイナリーを北上していくうちに見覚えのある建物が…。

そう、OpusOne(オーパスワン)ワイナリーです。

043 建物も優雅で神々しいですよね。

オーパスワンでは、いつも綺麗なクラシックの曲が流れています。

045 もともとこの「オーパスワン」とは音楽用語で「作品番号1番」という意味。

「一本のワインは交響曲、一杯のワイングラスはメロディのようなものだ」

という、創始者のひとり、フィリップ・ド・ロッチルト男爵が命名した話は、以前のブログにも書きましたが、有名な話ですよね。

047 あまりに美しいその中庭で、皆が雰囲気を楽しんでいます。

061 そして、今回初めて訪問したのですが、シャンパンのドン・ペリニヨンで有名なモエ・ヘネシー社が1973年に建てた発泡酒(スパークリングワイン)のためのDomaine Chandon(ドメーヌ・シャンドン)。

日本では発泡酒=シャンパンとされていますが、本来「シャンパン」とはフランスシャンパーニュ地方でつくられる発泡酒のみ、語ることが許されている商号。

ですから、厳密な意味ではいくらモエ・ヘネシー社が作ったとはいえ、ナパでつくられる限りはシャンパンとは言えないのです。

069 ここでは多くの人たちが陽を浴びながら発泡酒を飲んでいます。

066 僕たちはここでお昼をいただいたのですが、この料理が本当においしかった。

僕はもう何度もアメリカに行っていますが、正直、もしかしたらアメリカ人は味を感知する味蕾というレセプターが違うのではないか? と思うことが時々あったのですが(笑)

067_2ここの料理は味も繊細で、料理の量も日本人にちょうどよい感じです。

本当に素晴らしい。

それぞれの料理に合ったお勧めの発泡酒がメニューにのっています。お勧めのものを注文してみると、本当に料理ととろけるように味がミックスするのです。

想像以上にバリエーションも豊富で、最後まで楽しませて頂きました。

また次にナパに来た時には必ず行こうと思いましたよ。

075 帰りはベイブリッジ経由で帰りました。まだ明るいうちにサンフランシスコに帰ることができました。

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2009年3月27日 (金)

レディエッセ講習会

064 この日の午後は、カルフォルニア・パシフィック・メディカルセンターに伺いました。法令線(鼻唇溝)を浅くしたり、あごや鼻の輪郭を整えるいわゆるプチ整形に使われる、ヒアルロン酸やコラーゲンなど「充填剤(フィラー)」の一種であるハイドロキシアパタイト(レディエッセ)の講習会があったのです。

078 この総合病院は1875年にできたサンフランシスコでも最も古いもの。

067 レディエッセを5年以上販売しているバイオフォーム社が、今回は経験ある二人のドクターを招いてこの場所でトレーニングを行います。

073 このトレーニングはどの部位にどのぐらいの量を、どの方向に打つか、という基礎をプレゼンテーションで学んだ後、

071施術者が実践するというもの。

他の医師が実際に患者さんに施術する場面は、何度見ても勉強になります。

しかし、国内外でこういった施術を見るたびに思うのですが、日本人の医師はやっぱり器用という点でずば抜けていますね(笑)。

たとえば僕だったら、フィラー注入を行う際、左手を使うことはもちろん、注射器を持っている右の三本の指以外の、つまり右手の薬指や小指を独立して使って、肌を押さえたり伸ばしたりしながら注射を行います。

しかし、こうして海外で様々な国からやってきた医師の施術を見ると、母国では有名だったり経験ある医師の場合が多いにも関わらず、彼らは両手の指を独立して動かして注射をする、ということができないのです。

米国でフィラー専門のクリニックを日本人がつくったら、絶対に人気のクリニックになると思いますよ。

アジア人、中でも特に日本人は器用な人が多いですよね。なぜなのでしょう?

元々勤勉でコツコツとひとつのことを忍耐強くやり続ける、という日本的な「職人気質」もあると思いますが、アジア人は箸を持つ文化であるということもありますよね。では、そのアジアの中でも他の国と日本人とで違う点はどこかと言えば、ピアノもあるのかな、と今回考えたりしました。

最近はまた事情がちょっと違うかもしれませんが、日本人の僕たちの世代は、子供時代に親がピアノを習わせたり、学校で鍵盤に触れることが日常の中にありました。大きなピアノを弾いたことはなくても、オルガンやピアニカで指を動かした経験はありませんか?

僕もピアノを弾くのですが、今思えば、子供の時から左右の指を独立して動かす練習として、ピアノは脳にもとてもよい訓練になったのではないでしょうか?

話がちょっと脱線してしまいましたね。

080

さて、当日は様々な地域から沢山のドクターが参加しました。日本の顔見知りのドクターも何人かいらっしゃいましたよ。

082 講師のDr.Weschlerと写真を撮りました。

001最後にレディエッセの販売元であるバイオフォーム社から修了証書をいただいて帰りました。

色々と勉強になりました。

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2009年3月26日 (木)

AAD 米国皮膚科学会2009

米国皮膚科学会(AAD:American Academy of Dermatology)は今年で67回目の開催となる歴史ある学会です。毎年3月初旬に米国の西海岸、東海岸、南部で順番に開催されるのですが、皮膚科系の学会では世界一の規模を誇ります。

日本でレーザー・光治療を行う医師を皮膚科医と、形成外科を含めた皮膚科以外の科に分けた比率で見ると、それはおよそ2:8と言われています。これは世界でも特殊な例であり、他国でこの比率は完全に逆転します。つまり、米国をはじめとした諸外国でレーザー治療を行う医師は皮膚科医比率が8で、その他の科の医師比率が2となるわけです。

そうした背景もあり、皮膚科学会にはレーザー・光治療に関連する演題がとても多く、機器のリリースに関しても、治療の方法についても、また市場の動向を知る上でも、このAADは最新情報を得るために欠かせないひとつのビッグ・イベントとなっています。

全米ではこのほかに、米国レーザー医学会(ASLMS:American Society for Laser Medicine and Surgery)という学会があります。こちらは4月初旬に毎年開催されるのですが、レーザー医療専門の学会です。今年は29回目、ワシントンDCで開催されます。

多くのレーザー製造会社は、3月のAADか4月のASLMSに標準を合わせて新機種をデビューさせることになります。

001ホテルからAADの会場に歩いて行ってみました。

045ところが、会場にあまり人がいないのです。

通常はコメディカルの方々合わせて、4万人ぐらいの人出でごった返し、ネームプレートをもらうのにさえ長い列に並ぶような状態なのですが・・・。

008今年はガラガラ。

やっぱり不況のせいだということです。全米中から人が集まらないのです。

「100年に一度の不況」を肌で感じてしまいました。

012 とりあえずネームプレートをもらいます。昨年、何人かの方々のご協力があって、念願のアメリカ皮膚科学会(AAD)の認定医(メンバー)になることが出来ました。

アメリカの医学会のメンバーになるには、日本の学会に入会するよりもはるかに高い、いくつものハードルがあり、ペーパーワークも大変だったので、メンバーの名札を頂いたときには、感無量でしたね。

016例年に比べて人が少ないとは言え、技術展示のブースはそれでも盛況です。

019 広い会場の中で、目当てのレーザー会社を探します。

034 まず立ち寄ったのは、昨年末に購入したホヤコンバイオ社。

International DivisionのディレクターであるBruce M Byersです。

僕の名札を確認すると、

「Dr.Fujimoto?? もしかして、明後日に本社を見学に来ると言っていた日本のドクターですか?」

と聞いてくるのです。

自分の持っているレーザーの製作会社を訪問すると、企業理念がわかります。

僕は機会があるごとに、会社訪問をしているのですが、今回初めて購入したホヤコンバイオ社の訪問ができるように、アポをお願いしていたのです。

しばらく世間話をしましたが、まだ日本未承認のレーザーの前で記念撮影しました。

ホヤコンバイオ社訪問ブログもこの後書きますので、すこしお待ちください。

037 昨日訪問したサーマクール+フラクセル販売会社であるソルタメディカル社。

031 今年のAADデビューの新製品、痩身の機器を前に、CUTERA社の副社長のボブ・シャインと。この僕と一つ違いのハーバード大学出身の工学博士とは、以前からなんとなくウマが合い、学会で顔を合わせるたびに近況を報告し合っています。

036 超音波で目視しながら、頬の筋膜を引き締めるとの噂の「ウルセラ」。

まだ米国で非公認ながら、フェイスリフトに近い効果があるとのこと。これは興味がありますね。

機器をクリニックFに貸してくださいとお願いしているのですが、残念ながらまだいくつか課題があって叶わずにいます。

もしも本当に効果があるのなら、サーマクールにとって代わるエポックメイキングな機器となる可能性を秘めていますよね。効果を自分の目で確かめたいものです。ただし、施術自体はかなり痛みを伴うようですが・・・。

025 イスラエルのシネロン社もありました。アジアパシフィック担当のIDOさん。クリニックFにも何度も訪問してくれています。

シネロン社は昨年デビューさせたマトリックスIRを主軸にした、

ギャラクシー(フォトリファーム)の上位に位置する「トリニティ」

という照射方法を推奨し始めました。

トリニティについては先日のブログにも書きましたが、これは今クリニックFでも一番人気の照射法。

直後に体感できる、肌の引き締まり感とモチモチ(?)感、シミが浮き上がってくる様は、ダウンタイムのない、ノンアブレイティブ治療の中では、間違いなく第一選択と言えます。

033 そして、この新国際学会周遊記でもおなじみのサイノシュア社。

このサイノシュア社の営業の布陣は今回大きく変わってしまいました。

日本人で副社長を務めておられた清水賢治さんがサイノシュアを辞められたのを出国前に聞いてサンフランでの再会を楽しみにしていた僕は非常に複雑な気持ちでいましたが、今回はアジアパシフィックの担当のシンガポール人、Yu Shinjiと再会を果たしました。

今年は5月に中国で講演をしてほしいと言って頂きました。実現したら嬉しいな。

020 ちなみに今年一番大きなブースを構えていたのは、ボトックスのアラガン社でした。

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2009年3月25日 (水)

フィッシャーマンズワーフのシュリンプサンド

001翌朝、起きてみるとこの通りの晴天。

この日最初の予定まで2時間ばかり時間があったので、フィッシャーマンズワーフまで食事に行くことにしました。

017 サンフランシスコといえば数多い坂を登るため、歩くのはちょっと厳しい。ケーブルカーを使わない手はありません。

002一日券を購入して移動することに。

005 トコトコと坂を登るケーブルカーに乗ると、

「サンフランシスコに来たんだなぁ」

と思うのです。

044 そして途中にはこのビュー。

世界で一番曲がりくねった坂「ロシアン坂」からコリタワーを望むことができるのです。

ここではいつもケーブルカーが、観光客のためにいったん停止してくれます。

013 約15分余りでフィッシャーマンズワーフに着きました。

014 ここは、新鮮な魚介類が多く、いつも人でにぎわっているのですが、まだついた時間が早かったため人はまばらです。

024 僕はクラムチャウダーとシュリンプ&ロブスターサンドを買って、港で食べ始めました。

026 すると、餌を欲しがるカモメ達が次から次へと寄ってくるのです。

ついつい面白くて、沢山あげてしまったら、自分の分がほとんどなくなりロブスターがあまり食べられませんでしたよ(笑)。

036 波止場の先には、クリントイーストウッドの映画「アルカトラズからの脱出」で有名になったアルカトラズ島が見えます。

028

サンフランシスコの港は日本と違って異国情緒が漂いますよね。

029 僕の大好きな場所の一つです。

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2009年3月24日 (火)

ジャパンタウンのラーメン屋

078 ソルタメディカル社のあるヘイワードからベイブリッジを渡ってサンフランシスコの街に戻ります。

この夜景は煙草のパーラメントのコマーシャルで使われて、有名になりましたよね。

とても綺麗な夜景でした。

ソルタメディカル社では、テーマパークに連れて行ってもらった子供のように、本当に楽しいひとときを過ごさせて頂きました。

西村社長、本当にありがとうございました!

082この日にサンフランシスコに到着して疲れていたのですが、なんだか小腹がすいたので食事に行くことに。

夜も遅かったので、ラーメンを食べに行くことにしました。

080 サンフランシスコでラーメンといえばこの店。ジャパンタウンの「タンポポ」です。

このラーメン。実はインスタントラーメンなのですが、妙にうまいのですよね(笑)。

084 このジャパンタウン。街は日本語であふれています。

でも、このところ不況の影響で日本人が減ってしまい、今は日本人も少ないとことです。

残念な気がしますね。

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2009年3月23日 (月)

レーザー機器の進歩に関わる重要人物

064 こちらはパーティーでお会したDr.Ren。

リライアント社の技術者でしたが、合併したソルタメディカル社でもCTOに、つまり技術のトップになった人です。

彼の頭脳がまさにフラクセルを作り上げたといえるのです。

このレーザー界には、何人かレン博士のように、天才的な技術者がいるのです。

キャンデラ社やサイノシュア社にいた故フルモト博士や、ルミナス社のシモンエックハウス博士、キュテラのスコット博士など。

こうした数名の天才的な技術者が新しいコンセプトのレーザーを開発し、数年おきに、いわばレーザー技術の土俵が替わる「パラダイムシフト」が起こるのです。

彼らがレーザー会社を移動すると、元いた会社が廃れてしまうといったこともあるようです。

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2009年3月22日 (日)

ソルタメディカル社 附属クリニック

056_2クリニックに入ると多くのスタッフが出迎えてくれました。ビデオを撮影している人も見えます。

クリニックは待合以外は大きく3室。

057_3ひとつはこのように多くの画像診断システムが並べてある部屋でした。

058_2大学病院にあるかどうかの画像診断機器。さすが機器開発の会社のクリニックです。

きっちりとした臨床データを取得した上で機器を作っているのがわかります。

059_2 奥の部屋では機器が並び、多くの見学者がいます。

061 元祖フラクショナルCO2レーザーである「フラクセルーリペア」

今年のAADでは、フラクショナルCO2の機器が15社ぐらいから販売されていました。

昨年末にクリニックFにも導入された

「eCO2プレミアム」

もそのうちの一つですが、

今までのフラクセルやアファームに代表される、

“ノン・アブレイティブ・フラクショナル・レーザー・リサーフェシング(NAFRR)”

に対して、このCO2フラクショナルレーザーは、新たな

“アブレイティブ・フラクショナル・レーザー・リサーフェシング(AFRR)”

という分野を開いたといえます。相変わらずこの分野では他社に比べて頭一つ抜きんでていますね。

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2009年3月21日 (土)

サーマクールとフラクセルの組立工場

ソルタメディカル社のパーティー会場で、併設している工場見学に行く人のためのツアーを募っていたので参加しました。

037工場に入ると出荷前のレーザー機器がたくさん。

042こうしてサーマクールとフラクセルリペアが同じ組立工場の中で並んでいるのを見ると、実に不思議な感じがしますね。

045こちらでは長時間サーマクールを使用することで動作チェックをしているのだそうです。

046こちらフラクセルの製品チェック中です。

フラクセルのヘッドを何百時間と長時間にわたって振り続けることで、値が正確に出るのか確認をしているのだそうです。

052 そして世界に出荷前のフラクセルとサーマクール。

こうして世に出されるのですね。

062 さらに工場の隣にはフラクセルとサーマージ専用のクリニックがあります。

リライアント社もフラクセル専門のクリニックを横に併設していましたが、企業がこういった試みをするのは、製品開発上もとてもよいことだと思いました。

入ると沢山のスタッフと見学者がいました。内容は明日のブログで…。

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2009年3月20日 (金)

サーマフラックス

001 サーマクールとフラクセルは僕にとっても非常に思い入れのある機械です。

僕は2007年4月に開催された第27回米国レーザー学会(ASLMS)で、 「サーマクールとフラクセルの併用療法による若返り療法」

「The Treatment of Photo damage and Facial Rhytids Utilizing Fraxel (1550nm Erbium Glass Fractional Laser Resurfacing) and Thermacool TC (Monopolar RF) in Japanese Patients (原題)」

という演題を出したことがあるのですが、アジア人の肌を対象に、二つの併用療法を演題に発表したのは、当時僕が初めてでした。

「サーマクール」で皮下組織まで熱を加え、リフトアップとコラーゲンの再構築をはかり、

「フラクセル」で表層の肌を少しずつ入れ替えてゆく

この併用療法は、「シミ」や「くすみ」などの“色彩的老化”の治療には、QスイッチレーザーやIPLなどに一歩譲りますが、

「たるみ」や「しわ」、「肌の質感」「肌の若返り」に対しては、美容先進国のアメリカで、最も効果があるといわれている施術方法。

この二つの施術を合わせた「サーマ・フラクショナル」という療法は、アメリカでは一般に売られているパンフレットになっているぐらいメジャーな施術になりつつあります。

そういう意味でも、今回のソルタメディカル社誕生は僕にとっても感慨深く、全く異なった研究チームによって開発された二つの機器メーカーが、こうして一つになるのはお互いにとって、今後のさらなるマーケット拡大にも繋がる様々な可能性を秘めているのではないかと思います。

この併用療法は、日本でも今後「ThermaFrax(サーマフラックス)」という名前でPRされてゆくようですよ。

072 写真は、ソリタ社のパーティーでお会いしたSusan Van Dyke MDです。

今日3月22日に日本で行われたサーマフラクセルの招待講演をするドクターでした。

彼女の息子さんは現在日本に留学中で、今回2週間ばかり日本に滞在する予定だとか。

僕は3月22日にはモナコのアンチエイジング学会で招待講演があるので、あいにく日本でお会いできないんですよ・・・と話すと残念がってくれました。

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2009年3月19日 (木)

ソルタメディカル社訪問

サーマクールを販売しているサーメージ社が、フラクセルを販売しているリライアント社を事実上買収し、「ソルタメディカル社」という新しい名前の会社になりました。

054 僕がサンフランシスコに到着した日の夜、JMECの西村社長にお声を掛けて頂き、この新しいソルタメディカル社で行われたウェルカム・パーティーに参加させて頂きました。

022写真は、Stephen Fanning。元サーメージ社の社長だったのですがソルタメディカルの新社長にそのままスライドしました。

Stephenは2年前にサーメージ社社長の就任時の来日のときに会食をしたのですが、僕のことをよく覚えていてくれ、社屋の入口で出迎えてくれました。

招待客は、まず「社内ツアー」へ。

065最初に思わず目を奪われたのが、この会社が持つ特許です。

観てください、この数!

すべてレーザー関係のパテントですよ。すごいですよね。

023_2サーマクールの実験機、第一号と第二号の展示がありました。

024_2

さらに奥には2002年から2009年までのリライアント社、サーメージ社の研究開発(R&D)とPRを掲示している場所がありました。

独自の路線を歩いていた二つの会社が合併したのですから、お互いの理解を深めるのによいのでしょうね。

025_3 招待客は皆興味深そうに観ています。

032_2 さらに2009年の場所には…。

これはきっと今回のAADで登場する、新製品なのでしょう。

073 そしてこのサーマクールのアタッチメント。

少しずつ進化しているのが写真でわかりますか?

034_2 パーティー会場に入ると、

世界各国から集まったドクター達でいっぱい。

068演奏も素敵です。

070 僕もワインを片手にいろいろな方と歓談をさせて頂きました。

写真を撮りそびれてしまったのですが、この近くに住み、シネロン社のレーザーを中心にクリニックを開業しているという、僕と同姓のFujimoto先生という方にもお会いしました。日系3世だそうで、日本語は全く話せないのだそうです。

御年はもう還暦近くでしょうか。

でも同姓のよしみで話が弾み、わずかでしたが楽しい時間となりました。

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2009年3月18日 (水)

サンフランシスコ 全米皮膚科学会2009

徳島の出張から数日後、クリニックを午後の3時に出て成田空港に向かいます。

069今回の目的地は、アメリカ・サンフランシスコ。全米皮膚科学会(AAD)が、今年はこの場所で開催されたのです。

この学会は皮膚科では世界最大規模の学会として知られています。学会開催中は全米どころか、世界中から集まる医師や医療関係者が宿泊するため、その都市の人口がおよそ4万人も増えるのだと聞いたことがあります。

065 AADの学会は、アメリカの西海岸、東海岸、南部の順番で開催されます。

前回サンフランシスコで開催されたのが2005年のこと。僕はその後、イスラエル・シネロン社の招待講演でもこのサンフランシスコに来ています。

インターネットでこちらの天気を見ていたら、サンフランに滞在する全日程=雨と出ていてちょっと憂鬱だったのですが、来てみるとこの通り、雲ひとつない快晴。

ゴールデンゲートブリッジが綺麗に見えますね。

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2009年3月17日 (火)

再利用チップに御用心

今日クリニックに出勤したら見覚えのない社名の郵便物が来ていました。

なんだろうと開封してみると、

「フラクセルを導入されているクリニック様へ」

という表題がついています。

ちょっと読んでみると、

「接続機械をつけるだけで、フラクセルチップがなんと再利用できます。」

「タイタン用もあります」

「コスト削減できます。」

という言葉が…。

いわゆる“再利用チップ”購入の申込書だったのです。値段も正規のチップに比べると、驚くほど格安です。

写真を撮ってそのままブログにアップしようと思ったぐらい、ちょっとびっくりしてしまいましたが、こういったものが横行しているのですね。

フラクセルやサーマクール、タイタンは、一定の容量を超えると機器の先端に使う“チップ”が使用できなくなります。

その消耗品の金額が高いものも多々あって、それ故にそれぞれのレーザー施術は、「最低価格」が自動的に決まってしまうことも多いのです。けれど、本来使い捨てをすべきチップのコンピューターROMを書き換えてしまうことで、これらの消耗品を再利用する人たちがいる・・・というわけです。

都内でも安価で施術を受けられるクリニックが何軒もある時代ですが、実はこの1週間余りの間に、他院でフラクセルやサーマクール等の施術を受けたが、

「ひどい火傷をしてしまった」

「かえって状態が悪化している」

「受けていた説明どおりの効果を得られていない」

「何度も通っているが、むしろお金を取られすぎている気がする」

・・・などなどの理由により、なんとかならないか、セカンドオピニオンを求めていらしたり、クリニックFで改めて治療を受け直したい、と言っていらした患者さんが、5人もいました。医者含めスタッフが20名くらいいるような大手のクリニックで「5人」という数字は決して多くないかもしれませんが、クリニックFのような、医者と言えば僕しかおらず、一日に数名の患者さんしか診ない細々とやっているクリニックで「週に5人」というのは、結構な数字なのですよ。

以前から他院でのトラブルに懲りていらしてくださる患者さんは結構いましたけれど、それが最近特に増えているようで、ちょっと気になりますね。

レーザー治療で起きるトラブルは、もちろんパワーやパルス幅、波長、カバレッジの%選択ミス、機器のメンテナンス不足、医師の技量不足、知識不足・・・ということが原因の場合も多いと思うのですが、再生チップを使用したことで、こうしたトラブルが起こっている可能性も否めません。

使い回しの注射針を使われることを想像してください。ぞっとしますよね。なにより、僕はレーザーの開発現場で、技術者たちがどれだけ苦労をして新しいレーザーを作り上げているか、実際その工場や工程を様々な国で見てきていますし、それらが文字通り「血と汗と涙の結晶」であることを知っています。格安の再生チップは、安全性を欠くばかりか、そういった人たちの努力を踏みにじり、技術者・研究者に対するリスペクトを欠くものであるといっても過言ではないと思います。

こればかりは賛成できません。

クリニックFのレーザー治療価格は、国際基準に照らし合わせたものです。

ゼロを二つ取ると、そのままUSドルになります。新しく出るレーザーを定期的に購入するレーザー専門のクリニックであれば、クリニックFの価格と比較して、値段をそんなには下げられないはずなのですけれどね。

しかしながら、キャンペーン価格などで、どう考えても原価を割るような価格で治療を提供するクリニックがある。

レーザー治療を安く提供するクリニックはありますが、安く提供するためにはそれなりの理由があるのです。

日本におけるレーザー医療全体の信用と未来に関わる問題ですから、僕ももう少しちゃんとリサーチしてみたいと思っていますが、これからレーザー治療を受けようとお考えの方がいらしたら、クリニックを選択する際にはお気をつけください。

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瀬戸内の海の幸

講演後に、赤池先生ご夫妻に、美味しい海の幸を御馳走になりました。

029おいしいお酒を手に入れてくださったとおっしゃっていたのですが、

まず出てきたのがなんとこの本格芋焼酎「森伊蔵」しかもそのプレミアムバージョン

「森伊蔵 極上の一滴」

だったのです!!!

これには酒好きの僕もびっくり。

東京ではまず手に入らないプレミアム焼酎です。

初めて飲ませていただきましたが、甘い香りとまろやかな味わいにやられてしまいました。

031 皆で味わいながら飲んでいると、もう一本あったのです。

なんと次に出てきたのはこれ。

あの幻の焼酎「魔王」です。

この焼酎もめったに手に入らないのです。

032 しかもお店で出てくるものは、瀬戸内の海の幸である美味しいものばかり。

本当においしい焼酎をロックで沢山いただき、酒好きの僕としては珍しく、夜10時には撃沈してしまいました。

赤池先生、また関係者の皆様。

本当にありがとうございました。

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2009年3月16日 (月)

眉山

講演の後、会食まで少し時間があったので、眉山に連れて行っていただきました。

018徳島駅を背にすると、赤池先生のクリニックのあるビルが見えます。徳島駅前通りには背の高い椰子の木があるので、南国に来たなと感じますね。

駅前通りをまっすぐつきあたると、阿波おどり会館があります。

026こちらから眉山まで、ロープウェイが出ているそうです。

019 僕たちは車で眉山を目指しました。

市内から約15分ぐらい。山道を登ってゆくと眉山の頂上の公園につきました。

022ここから 長い階段を登ると視界が開ける場所に出ます。

そこは徳島市から鳴門海峡、淡路島、そして海の先には和歌山県が見える絶景でした。

025

阿波おどり会館までのロープウェイの駅がこの展望台の下にあるようで、ロープウェイがちょうど出発したところでした。

024ロープウェイ乗り場にはこんな映画の撮影記念看板がありました。

020 レストハウスにもこんな文字が。映画のおかげで眉山は全国的に知名度が上がりましたね。

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徳島出張

生まれて初めて徳島県に行きました。

徳島の赤池瞳先生率いる赤池クリニックグループで開催された、講演会に呼んでいただいたのです。

004 僕にとって徳島といえば

「阿波踊り」

「鳴門海峡のうずしお」

そして僕が漫画「小早川伸樹の恋」連載のときに、医療監修をさせていただいた、柴門ふみさんの出身地。

ただ実際空港でこの阿波踊りのブロンズ像を見た時は、ちょっとびっくりしました(笑)。

そういえば、羽田発徳島空港行きの同じ便に、プロレスの蝶野正洋さんが乗っていて、徳島空港で人だかりになっていました。迫力ありましたよ。

017 会場は徳島駅に接する「ホテル・クレメント」

赤池瞳先生の経営されるクリニックもまさに駅前のビル。そしてこの「ホテル・クレメント」には赤池グループのエステティックサロンもあるのだそうです。

014 ホテルの一室から見た光景はこんな感じ。

右手には、松嶋菜々子さん主演の映画で話題になった「眉山」もよく見えます。

そういえば、僕はこの映画、海外の学会に行く時に機内で見たのでした。もうひとつ徳島との接点がありましたね。

001講演会場はこんな感じでした。

012 僕の講演は、

「肌の老化の仕組みと美肌レーザーの歴史~世界の最新技術でここまできれいになれる~」

というもの。

講演の演題そのまま、肌の老化の仕組みと、美肌のレーザー機器の歴史の話をさせていただきました。

010 僕は通常同業者=ドクターに対して講演することが多いので、難しいスライドが多かったと思うのですが、皆さんとても熱心に聞いて下さって、感激しました。

聞けば、この講演会は今回が5回目。僕のブログにも登場した、エンビロンの創始者デスモンド・フェルナンデス医師や、大阪の葛西形成外科の葛西健一郎先生などが過去にご講演されているとのこと。

あまりのビックネームが並ぶので、僕なんかでよかったんだろうかと恐縮してしまいました。

028 講演が終わった後、赤池クリニックを見学させていただきました。

駅前のビルの中にあるクリニック。

細長い間取りをとても綺麗に使っていらっしゃいました。

027 診察室にはアファーム・マルチプレックスとがありましたよ。

なんでもサイノシュア社によると、この機器は四国四県に一台しかないのだそうです。

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2009年3月11日 (水)

巨星落つ

実は京都出張に出掛けていたのは2月の終わりのことでした。

先週から僕はアメリカ・サンフランシスコで行われていた2009年米国皮膚科学会(AAD)に参加しており、その間のIT環境が読めなかったため、滞在中にアップするブログを出発前に書き溜めていたのです。

現地でもし状況が整えば、今年のAAD最新情報を御紹介しようと思っていました。

ところが、サンフラン滞在中思いがけず一人の偉大な人物の訃報を耳にすることになり、大きなショックを受け、それどころではなくなってしまいました。

そして、ショックを受けたまま、今日の夕方帰国しました。

日本最大のレーザーディストリビューター(輸入代理店)=株式会社JMECの創始者である森下純一元社長が、肺腺がんのためにわずか60歳で亡くなったのです。

アメリカに発つ前、東京医大にお見舞いで伺ったばかりの事でした。

森下社長はある老舗の医療機器メーカーから独立され、平成7年に株式会社JMECを設立。そのカリスマ的な営業力と統率力に、初期からマーケティングを担当されていた現社長である西村浩之氏のインテリジェンスが加わり、このふたりの素晴らしいケミストリーによって、JMECはわずか数年で業界ナンバーワンといわれる企業へと成長します。

森下社長は、人的魅力に溢れた人であったのはもちろん、市場に何が必要かという事に対して天才的な嗅覚を持った人でした。

ロックス・アンダソンの熱融解理論に基づいた、アレキサンドライト脱毛レーザーであるサイノシュア社LPIRを、日本人に対して美容目的でかつ安全な脱毛レーザー機器として見出し、当時の厚生省未認可商品を、医師の個人輸入という形で日本の市場に取り入れたのです。

脱毛と言えばエステティックサロンで針脱毛を行っていたような時代です。今では当たり前の「レーザー脱毛」という施術がこれによって生まれ、LPIRは脱毛機器市場で一大ヒット商品となりました。また、それによって美容のクリニックと言えば「美容整形」クリニックしかなかった日本に、新しく「美容レーザークリニック」「美容皮膚科」というものが生まれたのです。

レーザーとはまた違う「光治療」機器の代名詞=オーロラや、セルライトを機械で解消するフランス製の「エンダモロジー」を日本に持ってきたのも森下社長ですし、「メディカルスパ」や「アンチエイジング」という言葉をこの日本で医療関係者に広めたのも、森下社長なのかもしれません。そういった意味でも彼は本当の目利きでしたし、日本における美容医療、レーザークリニック、そしてアンチエイジングの歴史はJMECと森下元社長を抜きにしては語ることができません。社員の方々が、森下社長の“商才”を本当に尊敬されていたのを、僕は大学病院にいた頃からよく耳にしていました。

実は森下元社長は全くの下戸。お酒は一滴も飲めませんでした。

でも、飲みや歌いに行く席で、毎回新たなブラック&親父?ジョークを仕入れて、皆を楽しませてくれたのを思い出します。場の空気をいち早く読み、誰よりも気遣いをされる方でした。

森下元社長が僕に繰り返し言ってくれた言葉があります。

「藤本先生が僕に初めて会ったとき、なんて言ったか覚えていますか? 

 “僕はレーザーの世界に初めて入った新参者です。どんな事でも努力しますので、御指導ください。”

 ・・・と、僕に頭を下げて挨拶してくれたのですよ。当時、若いお医者さんでそれほど謙虚な人を見た事がなかったので、とっても印象深かった。

 その姿を見て、心からサポートしたいと思ったのです。」

と。

僕自身は、ただ当然のことをしただけのつもりで、実はそんな挨拶をしたことすら覚えていなかったのですが、それでもそう言ってもらえると嬉しくて、今思えばずいぶん甘えさせて頂きました。森下社長はそのお言葉通り、僕が悩んだとき、壁にぶつかったとき、挫折しそうになったとき、いつも力になってくれました。そして、現在の僕を支えてもらっているネットワークの土台をいくつも築いてくださったのです。

たとえば、JMEC主催のトータルアンチエイジングセミナーがきっかけとなった出来事があります。セミナーで僕の講演を聴き

「感動しました」

と言ってくれたマックスエンジニアリング社(現ルートロニック社)のヘイリャン社長が、2004年に韓国での講演に僕をスピーカーとして呼んで下さった。

それが僕にとって初めての海外講演となり、これがまたひとつのきっかけとなって、また別の国で行われる次の海外講演へと繋がっていきました。

現在まで僕は31回の海外講演をさせて頂いており、ブログ「国際学会周遊記」「新国際学会周遊記」もそこから生まれました。

森下社長が、僕のここまで来る道筋を、最初に示し、創って下さったのです。

ヘビースモーカーだった森下社長。肺の扁平上皮癌は喫煙と多いに関連するのですが、森下社長が闘病した腺癌は喫煙には関連がないと医学的には言われています。

因果なものですね。

ブログのタイトルにした「巨星落つ」とは、大きな業績を残した偉大な人物が亡くなってしまう事。

「惜別の念をこめている」

と辞書にありましたが、森下元社長はこの日本の美容レーザー界において、本当に大きな功績を残した人ですし、また僕自身にとって森下社長の存在は巨星に値するほど大きく、教えて頂いたことのすべてが、一生の財産となっています。いくら感謝してもしきれません。

60歳は、あまりに若い。若すぎますよね・・・。

明日がお通夜。明後日が告別式となるそうです。

森下元社長のご冥福を心から、本当に心からお祈り申し上げます。

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2009年3月10日 (火)

金閣寺

002金閣寺に来たことがありませんでした。

学生時代、修学旅行の行き先に含まれていたはずなんですが・・・全く記憶にないのです。

いったいどこで何をしていたんだろうなぁ・・・。

しばらく考えてみたところ、ある文献を見てわかりました。

僕が修学旅行に行った昭和62年、金閣寺は金箔を張り直す作業を行っており、改修中だったのです。

道理で全く記憶にない訳です。

金閣寺。正式名称は鹿苑寺。室町幕府3代将軍足利義満が造営した北山殿がその前身で、黄金に輝く舎利殿(金閣)の存在により、「金閣寺」と呼ばれるようになったと言われています。

昭和25年に学僧・林承賢の放火により炎上した「金閣放火事件」と、その後、三島由紀夫の名作「金閣寺」がこの事件によって生まれたことは、あまりに有名ですよね。

改めてこうして金閣寺の建築を観察すると、パンフレットにもありますが、一階は寝殿造り風。二階は武家造り。三階は仏殿風なのです。さらにその上の屋根には鳳凰が飾られています。

洋の東西を問わずして、特に当時を代表する政教の権力者の造る建築物は、庶民に対しての宗教観や世界観の教育も兼ねていると言われていますが、今回よくそれがわかるように思いました。

キリスト教の巨大な教会や修道院、その彫刻もしかり、イスラム教のモスクもしかり。エジプトのピラミッドも、実は王墓ではなく、ナイル川の洪水や気候の予測し、教育するための天文台の役割をするために行われた公共事業だと言われていますよね。

おそらくこの金閣寺の造りは、一階の寝殿造り(天皇家)よりも、二階の武家造り(室町幕府)が上位に。さらに三階の禅宗の仏様がその上位にあるといった、建築者である足利義満が誇示したい世界の価値観を顕しているのでしょう。非常に興味深いと思いました。

頂上の鳳凰は何を象徴しているのでしょうね? まさか、足利義満本人?? 知っている人がいたら教えてください。

009_2_2こちらは「陸舟の松」です。

船の上に立つ帆が本当に立派な松でした。足利義満のコレクションであった盆栽を大きく育てたものと説明があったのですが、まさに巨大な盆栽ですね。

盆栽のように、(神に与えられた)自然物を、ある美意識の元あえて変形させるという文化は、日本に伝わる独特なものだと聞いていましたが、この松の前では思わず立ち止まり、しばし見入ってしまいました。

こうして実際訪れてみると、金閣寺がこの京都にあるのは不思議な気がします。もちろん素晴らしく、さすが日本の誇る世界遺産なのですが、この街との相性はどうなのだろう・・・と、ふと考えてしまいました。006_2

しかしながら、わずかな時間でも今回来ることが出来て本当に良かった。

こうして、京都の街を歩き、寺巡りをするというのは、中学時代・高校時代を思い出すことにも繋がりますね。

大人になってみないとわからないものもたくさんある街ですが、わからないなりにも10代で一度見ておくことの大切さも、今では理解できるような気がします。

文化、芸術、歴史に触れ、自分なりに感じ考える時間というのは、本当に貴重ですね。

この後の仕事もうまくいきそうです。

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2009年3月 9日 (月)

蓮華寺と弘法大師

「京都に行かれるのなら、ぜひ蓮華寺に行ってみてください。素晴らしい庭を眺めながら、お茶を頂いてください。」

東京を出る前に、京都好きなスタッフからそう言われていたのを思い出しました。

地図を見ると、嵯峨野・嵐山の帰りにちょうど蓮華寺に寄ることができそうです。

しかし、辿りついてみると、石像が五体・・・。020_2

庭? 

お茶?? 

どこにも見当たらないけどなぁ・・・。

人に聞いてわかりました。京都に「蓮華寺」はいくつかあり、スタッフが言っていたのは大原の方の蓮華寺。

僕が来たのは、弘法大師の寺院・五智山蓮華寺。

全く違う寺だったのです。

五智山蓮華寺は、弘法大師が、きゅうりに封じ込めることで病を取り除いたことによる「きゅうり封じ」の秘伝で知られているそうです。

医者の僕は、こちらの蓮華寺の方に今回は縁があったということでしょうか。

釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来、宝生如来、薬師如来と並んだ石像。

それぞれに穏やかな顔をしていました。

017

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2009年3月 8日 (日)

嵐山/世界遺産・天龍寺

足利尊氏が後醍醐天皇の冥福を祈るため、夢窓疎石を開山として創建したことで知られる、世界遺産・天龍寺。

紅葉の時には世界中から集まった観光客が、息を呑むほどに美しいと溜息をつく池泉回遊式庭園も、今は静寂に支配されています。

Photo_3 Photo_2 個人的にはこの廊下が好きです。渡る前と渡った後では、気分も変わります。

Photo

長い廊下の先には、後醍醐天皇を祀る多宝殿が。

Photo_4春がもうそこまで来ているのですね。

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2009年3月 7日 (土)

嵯峨野へ

出張なので京都散策を思い切り楽しむ・・・というわけにはいきませんが、せっかくですからひとつ・ふたつ寺巡りをしておきたいな、と今回は朝の時間を使って嵯峨野へ出掛けました。

嵯峨野と言えば、「源氏物語」。僕にとっては竹林と天龍寺です。僕は竹が好きで、東京にいるときも時間が出来るとふらっと鎌倉の報国寺に行ったりします。なぜ竹に惹かれるんでしょう。不思議ですよね。

季節は完全にオフシーズン。春や秋でしたら観光客で賑わっているのでしょうが、この時期の嵯峨野はのんびりとしています。

035こうした風景を眺めているだけで、気持ちが凪いでいきますね。

  034

青々と美しくも清々しい竹林を歩いていきます。

この後、世界遺産・天龍寺へ向かいます。

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2009年3月 6日 (金)

イノダコーヒ

しばらく歩いた後、珈琲が無性に飲みたくなり、来た道を引き返すことにしました。

向かった先は「イノダコーヒ」。先日ブログにも書きましたが、僕の好きだった谷崎潤一郎や、池波正太郎が常連だったことでも知られる、老舗の珈琲店です。

「細雪」完結に向けて執筆の最中、やってきた谷崎潤一郎はどんな時間を店で過ごしていたのでしょうか。

若い頃からの神経症に始まり、高血圧、右手麻痺、狭心症、最後は腎不全と心不全の併発で亡くなった彼ですが、この店の甘くてミルクたっぷりの珈琲は、病を患っていても止められないほど旨かったのでしょうか。

イノダコーヒは、本店含め京都市内に何店舗かあると聞いています。

僕が好きなのは、三条支店。珈琲を店で飲む場合、味はもちろん大事ですが、空間の占める要素も大きいと思っています。店が広すぎても狭すぎても落ち着かないし、人が沢山いても逆に少なすぎても落ち着かない。豪奢すぎても質素すぎてもダメ。そうであれば、家や宿に帰って飲む方がよっぽどいいのです。

そういう意味で、この支店の奥にあるテラスに面した円形のカウンターが、僕はほどよく落ち着くんですよね。020_2

ちなみに僕はミルクも砂糖も入れない「ブラック」にしてもらいました。

今回初めて知ったのですが、聞けばこの三条店が出来たのは1970年のことなのだとか。

いつにも増して美味い珈琲を頂きました。

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2009年3月 5日 (木)

京都御苑の梅

そのまま歩を進めると、京都御苑が目の前に。

「今の時期は、梅林が綺麗ですよ」

と教えて頂いていたので、寄ってみる事にしました。

Photo

確かに綺麗です。

御存知ない方のために、京都御苑とはどんな場所なのか。その歴史を、環境省のホームページから御紹介させていただきます。

794年(延暦13年)、桓武天皇により定められた平安京の内裏(皇居)は現在の京都御所から約2kmほど西にありました。しかし、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする里内裏が置かれるようになり、1227年(安貞元年)の火災以後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。

現在の京都御所は、里内裏のひとつであった東洞院土御門殿に由来するもので1331年(元弘元年)、光厳天皇がここで即位されて以来、御所とされたものです。1392年(明徳3年)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。豊臣秀吉や徳川の時代になると、御所周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ、何度も大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小200もの屋敷がたちならぶ公家町が形成されていました。

1869年(明治2年)明治天皇の東京遷幸が挙行され、これに伴って、多くの公家達も東京に移住したため、公家町は急速に荒廃していきました。1877年(明治10年)に京都に還幸された明治天皇は、その荒れ果てた様子に深く哀しまれ、京都府に御所保存・旧慣維持の御沙汰が下されました。

この御沙汰をうけ京都府では、直ちに屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、苑路工事、樹木植栽等の「大内保存事業」を開始し、1883年(明治16年)に予定を繰り上げて完了しています。1883年(明治16年)9月、御苑の管理が京都府から宮内省に引き継がれた後も整備は続けられ、1915年(大正4年)の大正大礼に際して、建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整いました。


1947年(昭和22年)、京都御苑は、同じく皇室苑地であった新宿御苑、皇居外苑とともに、国民公園とすることが閣議決定され、1949年(昭和24年)に厚生省の管理運営のもとに、その由緒ある沿革を尊重し、努めて現状の回復保存を図るとともに、国民庭園として広く国民に開放し利用していくこととなりました。


1971年(昭和46年)7月、環境庁が発足すると、国民公園の管理は自然保護行政とともに厚生省から環境庁(現、環境省)に移り、京都御苑は、従来からの御所の前庭としての景観維持や都市公園的な役割に加え、大都市の中の広大な緑地としての自然環境を保全し、自然とのふれあいを推進していくという新たな役割が重視されるようになってきています。

・・・ということです。

Photo_2

カメラを片手にいらしてる方が何人もいました。013

一度御所も参観申込みをしてみたいと思いながら、まだそれは叶っていません。春の時期に合わせて来ることができたらいいのですが・・・。

012遠く、大文字山が見えました。

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一保堂

打合せの後、すこし京都の街を歩きました。京都に来るのは久しぶりです。007

途中、クリニックで気に入って飲んでいる煎茶やほうじ茶を出しているお茶の本店を発見。

「一保堂」。

さすがに外観から風情がありますね。

頂き物で飲んだのが最初だったと記憶しています。

001_2 包装紙が印象的で気になり、一保堂茶舗のホームページをチェックしたことがあります。

そこにこんなことが書いてありました。

「創業は今から約290年前の享保年間(1717年)。近江出身の渡辺伊兵衛(わたなべいへい)が、京都のほぼ中心に位置する寺町二条に、茶、茶器、陶器を扱う店として「近江屋」を出したのが始まりです。

そのうち、近江屋の扱うお茶の品質の良さは評判を呼び、やがて、今から約160年前、弘化3年(1846年)山階宮(やましなのみや)より

「茶、一つを保つように」

と「一保堂」の屋号を賜りました。」

この「茶、一つを保つように」というフレーズに、なるほどと思い、以来せっかくのお茶だからなるべく美味しく飲むにはどうしたらいいかと考えるようになりました。

御存知の方も多いように、お茶の道は奥が深い。同じ茶葉でも、煎れ方ひとつで全然味が変わりますよね。特に僕は一日に10~15杯くらいお茶を飲むので、旨いお茶を飲める日とそうでない日は身体のコンディションまで変わってしまう気がしています。

茶は薬也、と言いますからね。

008

いつもはスタッフが東京のデパートで買ってきてくれるのですが、せっかく来たから自分で買っていこうかな、と店を覗くと女性客で一杯。入りづらくて写真だけ撮って帰ってきました(苦笑)。

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2009年3月 4日 (水)

京都出張

  001

出張で京都に行ってきました。いくつか仕事があったためなのですが、その内のひとつをお話したいと思います。

053京都で長く検診センターをされている医療法人がひとつあり、階下に場所が空いたので、美肌のレーザークリニックを開くことを考えている、経営が成り立つかどうか視察してほしいとの依頼があったのです。

場所は「烏丸御池」の交差点からすぐのビル。まさに京都の一等地です。

060 この検診センターは、創業20年。CTやX線造影など、ほぼすべての検査機器がそろっています。

056 広々とした検診センターの待合からは、山々が見渡せるこんな借景が。

写真を撮るときに、室内の葉がどうしても反射してしまったのですが、ごらんのとおり、素晴らしい景色です。

054この場所にどんなクリニックができるのか、夢が広がりますね。

今まで僕は5つのクリニックの設立と経営をしてきたのですが、成功するレーザークリニックを作る為には、いくつかの条件を満たす必要があると思っています。

近隣の競合となりうるクリニックにどんなレーザーが入っているかを調査するのは当然ですが、やはり院長のキャラクターに合わせた、わかりやすい差別化されたクリニックを作ることが最も大切だと思うのです。

「なんでもできるクリニック」ではなくて、何かの分野に特化して、非常に優れた技術もしくは知識を持つということが、これから生き残ってゆくクリニックに必要なのではないかと思います。

良くも悪くもエッジの利いた、キャラクターと特色が見えやすいものがいいと思うんですよね。ニッチな部分があることも大切。

レーザークリニックという点にこだわっていらっしゃったのですが、それには内科のお医者さんではなく、レーザーに興味のある皮膚科もしくは形成外科領域の先生が必要です。

この施設の理事長、そして事務長とディスカッションをさせて頂き、

レーザーの技術を学べる医師が確保できるのであれば、アンチエイジングをテーマとしたレーザークリニック

内科の医師に、メタボリック外来を含めた、痩身のメニューを作るのであれば、メタボ・痩身専門クリニック

のための準備をしてゆく方針になりました。

僕の方はどこまでお役に立てるのかわかりませんが、こうした現場に来させて頂くと自分自身の今まで来た道を振返ったり、今後についても改めて考える良いきっかけになりますので、良い刺激を頂きました。ありがたいです。

医者としての自分の将来や、今後どこで自分が役に立てるのかを考えるとき、日本全体の医療現場が抱える憂いや不安、未来の予測を機軸に考えてみることがあります。

小泉首相の医療改革によって、日本の保険診療の医療経営者は、とてつもないダメージを受けました。これは時に、日本の医療の質までも維持できなくなるようなダメージです。

国からは、出来るだけ医療分野にお金を出さない。日本の医療費は、先進国の中でも最も低く、2006年の統計でも、OECD諸国30か国の中でも医療費対GDP比率は日本は21番目。

かつて先進国7か国で医療費が最低だったイギリスは、サッチャー政権(1979年から1990年)の低医療費・医師養成削減政策によって医療制度が崩壊しました。医療へのアクセスがあまりに低下し、手術待ち入院待機患者6か月以上が40%、12か月以上が20%という、癌患者であれば手遅れになってしまうような状況が続きました。

97年のブレア政権になり、諸悪の根源であった低医療費政策は見直され、12ヵ月以上の待機待ち患者はさすがに減少しましたが、現在でもイギリスでは、インフルエンザで受診予約をしても、では4日後に来てください。と言われるようです。4日も経過したら、インフルエンザは治っていますよね(笑)。結局現在に至るまで崩壊したイギリスの医療は回復していないのです。

日本は80年度後半から医療費削減政策がとられるようになりましたが、イギリスの事例があるにもかかわらず、小泉首相がさらに医療費削減政策を全面に押し出し、最後の追い討ちをかけたというわけですが、自民党と一緒に、国民医療もぶっつぶしてしまったわけです。

僕の医師免許には、当時の厚生大臣だった小泉首相の名前が書いてあります。

なんだか、複雑な気持ちです。

僕のMBA取得論文は、

「日本の保険診療下における医療機関の法人形態の転換―医療機関の株式会社化を含む病院経営の強化策について―」

なのですが、レーザー機器などのアンチエイジングツールで医療経営の底上げを行い、利益を医療の質を上げることに利用することを提案したものでした。

仕事はやはり、自分だけの利益を個人レベルで考えてもあまり面白くないですし、夢も広がらない。後世に名前を残したい、というほどの野望があるわけではありませんが、自分のこれまで苦労してきたこと、歩んできた道が何か人の役に立ったり、社会への還元に繋がれば、そこで初めて今までお世話になってきた方への恩返しが出来たり、自分の存在意味も出てくるのではないかな、と最近は特に強く思うようになりました。

日本におけるアンチエイジング領域でのレーザー医療普及、というのが僕のひとつのテーマでありますが、それ以外でもせっかく取得したMBAの知識も生かし、既存の病院などの経営の底上げに利用できれば、とてもうれしく思います。

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2009年3月 3日 (火)

村上春樹とエルサレム文学賞

村上春樹さんがイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞し、当地で先月行ったスピーチが話題になりました。

英語で行ったスピーチに僕は本当に感動し、それを日本語で自分なりに訳してみたいと思いました。

僕が彼の作品と初めて出逢ったのは、高校生のときです。

三島由紀夫や谷崎潤一郎のような、耽美派で行間に沢山の意味が含まれている文章をそれまでは好んで読んでいたのですが、村上春樹のガラスのように透き通る文章に初めて触れた時、思春期の心を揺さぶられてしまったのです。

「風の歌を聴け」

「1973年のピンボール」

「羊をめぐる冒険」

「ダンスダンスダンス」

初期の四作品は何度も読み返しました。これらの4冊は微妙にストーリーが繋がっています。

「風の歌を聴け」の「一人称」の世界から、“鼡”というあだ名の友との二人称の物語になり、“羊”で三人称。

そして、「ダンスダンスダンス」では初めて、たしか五反田君という「人の名前」が出てくる小説になります。

小説の幅が広がってくるんですよね。

そしてもう一つ。当時、とても衝撃を受けた

「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」

この本のことは、2006年7月のブログにも書きましたが、「世界の終り」と「ハードボイルドワンダーランド」という、2つの、何の関連もなさそうな物語が章ごとに入れ替わります。

徐々に全く関係のないと思われた、この二つの物語が自然と見事に交差してくるのです。

村上春樹は、その小説の中で、完全に完結したワールド(舞台)を見事なまでに作り上げる。自分を卑下する私小説でもなく、他人を批難する糾弾小説でもない。後のスピーチにも出てくるのですが、まさに新たな舞台を作り上げる嘘つきの天才なのです。

村上春樹がジャズ喫茶を経営していたのは有名な話ですが、作品の要所要所に挿絵のように出てくる音楽の知識も、僕が村上作品を好きな理由のひとつです。

高校生で出逢って以降、僕は彼の作品が出るたびに、リアルタイムですべて読んできました。

印象に残っているのは、地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめた「アンダーグラウンド」

銃殺刑を自ら求めた殺人犯の実弟のマイケル・ギルモアがトラウマのクロニクルを語った本の翻訳書である「心臓を貫かれて」。もしかしたらこの本は、村上春樹の翻訳本の最高傑作かもしれません。

世界の終わりとハードボイルドワンダーランドのように、二つの物語が交差する「海辺のカフカ」

そして、サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の新訳。名作ですから当然古い訳本も読んでいますが、村上春樹は新しい言葉で、新しい物語を語ってくれました。

これまで、僕の中で

「新書が出たらすべて読もう」

と思っている作家が4人います。村上春樹は、その一人なのです。

そんな村上春樹が、『社会における個人の自由』に貢献した文学者に贈られる「エルサレム賞」を受賞したのは、僕が昨年11月にレーザーのディスカッションのためにエルサレムを訪れた、まさにその翌日から始まったガザ地区への攻撃直後。彼が授賞式に行くかどうかに注目が集まり、賞を辞退して欲しいという声もかなりあったと聞いています。僕自身も、どうするのだろう、と気になっていました。

結局彼は現地に向かうことを決めたわけですが、受賞に当たって彼が英語で述べたスピーチはあまりに素晴らしかった。本当に僕は感動しました。

インターネット上に幾つか日本語訳があったのですが、どうしても自分の言葉と表現で訳したくなってしまい、ちょっと時間がかかったのですが、久しぶりに日本語訳に挑戦してみました。最近、英語は英語のままで読む努力をしているので、日本語に訳すことはしないんですよね。

誤訳があったらごめんなさい。つたない部分もあると思いますが、村上春樹への思いと敬意を込めながら自分なりに頑張ってみたつもりです。

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I have come to Jerusalem today as a novelist, which is to say as a professional spinner of lies.

今日私はエルサレムに小説家としてやってきました。つまり嘘をつく専門家としてここに来ました。

Of course, novelists are not the only ones who tell lies. Politicians do it, too, as we all know. Diplomats and military men tell their own kinds of lies on occasion, as do used car salesmen, butchers and builders. The lies of novelists differ from others, however, in that no one criticizes the novelist as immoral for telling them. Indeed, the bigger and better his lies and the more ingeniously he creates them, the more he is likely to be praised by the public and the critics. Why should that be?

もちろん、小説家だけが嘘をつくわけではありません。皆さんご存じのとおり、政治家も嘘をつきますし、外交官にだって、軍人にだって、嘘をつく状況はあることでしょう。中古車のセールスマンだって、肉屋だって、建設現場の職人だって同じです。

しかしながら、小説家の嘘が他の人の嘘と違うのは、その嘘が大きく、よりまことしやかであるほど、世間や批評家に賞賛されるということです。

なぜでしょうか。

My answer would be this: Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be true - the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies.

私の答えはこうです。巧妙な嘘をつくこと、つまり真実に見えるかのようなフィクションを創り上げることによって、小説家は真実を新たな形で生み出し、そこに新たな光をあてることができるからです。

多くの場合、真実をそのままの形で理解することや、正確に描写することはほぼ不可能です。それ故、私たち小説家は、真実が隠れている場所を突き止め、その尾っぽを捕えて作り話に設定を変え、フィクションの形に置き換える。

この作業をうまくやり遂げるためには、私たちにとって「真実」とは一体どこにあるのか。これをまず明確にしておかなければなりません。 巧妙な嘘をつくために、これは極めて重要なポイントと言えます。

Today, however, I have no intention of lying. I will try to be as honest as I can. There are a few days in the year when I do not engage in telling lies, and today happens to be one of them.

ただし、今日ここで私は嘘をつくつもりはありません。 可能な限り正直でいたいと思います。一年の中で私が嘘をつかない日というのはわずか数日しかないのですが、今日は偶然にもその数日の内の一日に当たる、というわけです。

So let me tell you the truth. A fair number of people advised me not to come here to accept the Jerusalem Prize. Some even warned me they would instigate a boycott of my books if I came.

さて、では正直な話をしましょう。実はここに来るまで、かなり多くの人たちからエルサレム賞の受賞式には行くなと助言されました。それでも行くと言うのなら、あなたの小説は不買運動にあいますよ、と警告した人もいました。

The reason for this, of course, was the fierce battle that was raging in Gaza. The UN reported that more than a thousand people had lost their lives in the blockaded Gaza City, many of them unarmed citizens - children and old people.

理由はもちろん、ガザで起きている激戦です。国連の報告では、封鎖されたガザ市街で千人以上が命を落としています。その多くは非武装の市民たち、子供たちや高齢者たちです。

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. This is an impression, of course, that I would not wish to give. I do not approve of any war, and I do not support any nation. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott.

受賞の知らせを受けてから、私は何度も自問しました。

このような時期にイスラエルに行き、文学賞を受賞するというのは、果たして正しいことなのだろうか? 

紛争の当事者どちらか一方に加担したり、圧倒的な軍事力を行使する国家の政策を支持しているような印象を与えることになるのではないだろうか? 

もちろんそのような印象を与えることは、私の本意ではありません。私はいかなる戦争も認めませんし、どの国家も支援しません。ましてや、自分の小説の不買運動が起こることなど、望んでいるわけがありません。

Finally, however, after careful consideration, I made up my mind to come here. One reason for my decision was that all too many people advised me not to do it. Perhaps, like many other novelists, I tend to do the exact opposite of what I am told. If people are telling me - and especially if they are warning me - "don't go there," "don't do that," I tend to want to "go there" and "do that." It's in my nature, you might say, as a novelist. Novelists are a special breed. They cannot genuinely trust anything they have not seen with their own eyes or touched with their own hands.

考えに考えた末、最終的に私はここに来ることを決めました。決めた理由の一つは、私に行くなと助言した人が、あまりにも多かったことにあります。たぶん、同じ立場になったとき、私以外の小説家でも、私と同じ決断をする人はいることでしょう。

小説家とは、ある事を言われると、真逆のことをしたがるものです。

誰かが私に「そこに行くな」「そんなことはするな」と言ったり、特にそれが「警告」になったりすると、私はそこに行きたくなるし、それをやってみたくなる。

それが小説家である私の性分ですし、小説家とは自分の目で見て、自分の手で触れないかぎり、何も信じることができないものなのです。

And that is why I am here. I chose to come here rather than stay away. I chose to see for myself rather than not to see. I chose to speak to you rather than to say nothing.

だからこそ私はここに来ました。離れることではなく、来ることを選んだ。目を背けることではなく、自分自身の目で見ることを選んだ。口をつぐむより、皆さんの前で話すことを選びました。

This is not to say that I am here to deliver a political message. To make judgments about right and wrong is one of the novelist's most important duties, of course. It is left to each writer, however, to decide upon the form in which he or she will convey those judgments to others. I myself prefer to transform them into stories - stories that tend toward the surreal. Which is why I do not intend to stand before you today delivering a direct political message.

だからといって、政治的なメッセージを言うためにここへ来た、ということではありません。善悪の判断をするのも、もちろん小説家の重要な責務の一つではありますが、小説家がどのような形でその判断を伝えていくのか、その方法論はそれぞれの小説家に委ねられています。

私自身は、自分の判断を超現実の物語にすることで、その責務を果たしたいと思っています。だから今日は決してそのために来たわけではありません。

Please do, however, allow me to deliver one very personal message. It is something that I always keep in mind while I am writing fiction. I have never gone so far as to write it on a piece of paper and paste it to the wall: Rather, it is carved into the wall of my mind, and it goes something like this:

そのため、今日ここで話すことは、私の個人的なメッセージになることをお許し下さい。

これは私がフィクションを書くとき、いつも心に留めていることです。

私にとって小説を書くことは、一枚の紙に文を書き、それを壁に貼りつける・・というような作業ではありません。私の心の中に立つ壁に刻み込むように、文章を書いている。そして、それはこういうことです。

"Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg."

「高く堅固にそびえ立つ壁と、その壁にぶつけると割れてしまう卵との間に立たされ、そのどちらかひとつを選択しなければならないとき、私は常に卵の側に立つ。」

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.

たとえその壁がどこまでも正しく、卵がどこまでも間違っていたとしても、私は常に卵の側に立つ。

Someone else will have to decide what is right and what is wrong; perhaps time or history will decide. If there were a novelist who, for whatever reason, wrote works standing with the wall, of what value would such works be?

何が正しくて何が間違っているかを決めるのは、他の人がすればいい。それを決めるのは、もしかしたら人ではなく、時や歴史なのかもしれない。

しかし、もし小説家が、どんな理由であったとしても、壁の側に立って作品を書いてしまったら、そこに何の価値があると言うのでしょう?

What is the meaning of this metaphor? In some cases, it is all too simple and clear. Bombers and tanks and rockets and white phosphorus shells are that high, solid wall. The eggs are the unarmed civilians who are crushed and burned and shot by them. This is one meaning of the metaphor.

この例え話の真意は何でしょう? 場合によっては、あまりに単純明快です。爆撃機、戦車、ロケット砲、白燐弾が、高く堅固にそびえ立つ壁です。卵はそれらによって砕かれ焼かれ、撃たれる非武装の市民です。それがこの例え話の意味の一つです。

This is not all, though. It carries a deeper meaning. Think of it this way. Each of us is, more or less, an egg. Each of us is a unique, irreplaceable soul enclosed in a fragile shell. This is true of me, and it is true of each of you. And each of us, to a greater or lesser degree, is confronting a high, solid wall. The wall has a name: It is The System. The System is supposed to protect us, but sometimes it takes on a life of its own, and then it begins to kill us and cause us to kill others - coldly, efficiently, systematically.

でも、この例え話の意味はそれだけに限りません。もっと深い意味があるのです。

このように考えてみてください。私たちは誰もが、ひとつの卵なのです。薄くて脆い殻に包まれた、かけがえのない、他の何とも取り替えのきかない個性を持つ、ひとつの魂なのです。

これは私にとっても、皆さんにとっても真実です。私たちは皆、程度の違いはあれ、高く堅固な壁に向き合い戦っている。壁には「システム」という名前があります。システムは私たちを守るために存在する反面、時に独走して、私たちを殺害し、他人を殺害するように仕向けます。それは冷酷に、効率よく、しかも形式的に進むのです。

I have only one reason to write novels, and that is to bring the dignity of the individual soul to the surface and shine a light upon it. The purpose of a story is to sound an alarm, to keep a light trained on The System in order to prevent it from tangling our souls in its web and demeaning them. I fully believe it is the novelist's job to keep trying to clarify the uniqueness of each individual soul by writing stories - stories of life and death, stories of love, stories that make people cry and quake with fear and shake with laughter. This is why we go on, day after day, concocting fictions with utter seriousness.

私が小説を書く理由はたった一つ。それは、一人ひとりの魂が貴重な存在であることを浮き上がらせ、そこに光をあてるためです。物語の目的は、私たちの魂が、システムの蜘蛛の巣に絡み取られ、意味のない存在にされてしまわないよう警笛を鳴らし、光をあて続けることです。

小説家の仕事とは、生と死の物語、愛の物語、人を泣かせる物語、恐怖に震える物語、笑いの物語などのストーリーを創ることによって、個々の魂が持つ個性を明確に描き続けていくことだと私は信じています。そのために私たち小説家は日々一処懸命、フィクションを紡いでいるわけです。

My father died last year at the age of 90. He was a retired teacher and a part-time Buddhist priest. When he was in graduate school, he was drafted into the army and sent to fight in China. As a child born after the war, I used to see him every morning before breakfast offering up long, deeply-felt prayers at the Buddhist altar in our house.

私の父は昨年90歳で他界しました。父は教員退職後、パートタイムで僧侶をしていました。父は大学院時代に徴兵され、戦乱きわまる中国大陸に送り込まれました。私は戦後に生まれましたが、子ども時代、父が毎日朝食前に仏壇で長く深い意味を持つお経を唱えている姿をよく目にしたものでした。

One time I asked him why he did this, and he told me he was praying for the people who had died in the war.He was praying for all the people who died, he said, both ally and enemy alike. Staring at his back as he knelt at the altar, I seemed to feel the shadow of death hovering around him.

一度父に、どうしてそんなことをしているのか、と聞いたことがあります。

戦争で亡くなった人たちのために祈っているのだと、父は答えました。敵味方関係なく、すべての死者のために祈っているのだと、父は言いました。

仏壇の前に跪く父の背を見ながら、私は彼を取り巻く死の影を感じました。

My father died, and with him he took his memories, memories that I can never know. But the presence of death that lurked about him remains in my own memory. It is one of the few things I carry on from him, and one of the most important.

私の父は、私が決して知りうることのできない彼の記憶とともにこの世を去りました。しかし、父を取り巻いていた死の存在というものは、私の記憶に残っています。それは父から継いだ数少ないもののひとつですし、私にとって最も貴重なもののひとつです。

I have only one thing I hope to convey to you today. We are all human beings, individuals transcending nationality and race and religion, fragile eggs faced with a solid wall called The System. To all appearances, we have no hope of winning. The wall is too high, too strong - and too cold. If we have any hope of victory at all, it will have to come from our believing in the utter uniqueness and irreplaceability of our own and others' souls and from the warmth we gain by joining souls together.

今日、私がみなさんに伝えたかったことは、たった一つです。

私たちは、国籍や人種や宗教の違いがたとえあっても、その前に皆ひとりの人間であり、それぞれにシステムと呼ばれる堅固な壁に向き合う、ひとつの脆い卵なのです。

一見すると、私たちは壁に勝てそうもありません。壁はどこまでも高く、あまりに堅固で、しかも冷徹です。

けれど、勝てる可能性がないわけじゃない。私たちが自分の魂も他人の魂も、同じように唯一無二のものであることを認め合い、お互いの魂を一つにすることによって温かさを生み出すことができれば、わずかに望みはあるのです。

Take a moment to think about this. Each of us possesses a tangible, living soul. The System has no such thing. We must not allow The System to exploit us. We must not allow The System to take on a life of its own. The System did not make us: We made The System.

少し、このことについて考えてみてください。私たちは誰もが、有形の、生きた魂を内に抱えている。システムにそれはありません。私たちはシステムに搾取されてはなりません。システムを独走させてはなりません。

なぜならシステムが私たちを作ったのではなく、私たちがシステムを作ったからです。

That is all I have to say to you.

これが私の言いたかったすべてです。

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today.

エルサレム賞を頂いたことに感謝します。私の作品が世界中で読まれていることに感謝します。そして、今日ここで、皆さんに語る機会を頂いたことを嬉しく思います。

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翻訳は以上です。

村上春樹は、世界中の誰も敵にせずに、あの時期、あの場所で想定できる最高の、素晴らしいスピーチをしたと思いました。

村上春樹がノーベル文学賞を取るのではないかという議論は毎年行われますが、今回のスピーチでそれが大きく近づいたのではないかと思います。村上春樹は、近い将来にノーベル文学賞をきっと受賞するでしょう。

そんな彼のことを、僕は同じ日本人として改めて誇りに思いました。

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cookin'NANTA

012 そしてもう一つのお願いは、この「NANTA」のチケットを取ってもらうことだったのです。

この「NANTA」ですが、ミュージカルでも演劇でもない、Non Verbal(非言語)Performanceという新しい分野を切り開いた韓国発のパフォーマンス。

1997年10月に初演されてから、3年で常設劇場までが建ち、すでに27か国、212都市でのワールドツアーを行って大成功を納めています。

5年ぐらい前に一度このパフォーマンスを見て、本当に驚いたのですが、その後何度かの訪韓でチケットが取れず…。

今回は本当に久しぶりにこのパフォーマンスを楽しめました。

017 案内された席についてみると、なんと前から二列目。しかも本当の中央のVIP席でした。

チケットを手配してくれたルートロニック社のキム・ナヨンさんに感謝です。

舞台は結婚式の厨房。

出演する人物は5人だけ。

独特のキャラクターの3人の料理人と、彼らを仕切る支配人。そしてその甥。

001パフォーマンスの始まりで、「結婚式までの一時間で、披露宴のフルコースを作れ」と支配人が無茶な命令を出します。

しかも、遊びに来た自分の甥に、料理を一緒に教えるように指示するのです。

(この写真はパンフレットからいただきました。)

残された1時間の中、料理の素人の甥を含めた4人の料理人が、観客を引き込んで、様々なパフォーマンスを始めるのです。

韓国の伝統民族音楽の「サムルノリ」をもとにした打楽器(太鼓)がベースで、厨房にある泡立て機やポリバケツ、鍋、お皿などを楽器にするのですが、中でも包丁を使った乱打(ナンタ)のパフォーマンスは圧巻です。

本物の包丁を使ってのパフォーマンスなのですが、目の前の席だと叩くたびにまな板が削れているのが見えるのですよ。本当にすごい迫力。

笑いも沢山あり、韓国からたっぷりエネルギーをもらって帰ることができました。

2泊3日で二つのワークショップに出席してきましたが、今回のルートロニック社・韓国ツアーのブログはこれでおしまいです。

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2009年3月 2日 (月)

絶品のサムゲタン

004_2 カニの他にもうひとつ。僕が韓国に行くとどうしても食べたくなるものがあります。

それは、サムゲタン。

今回も、

「おいしいサムゲタンを食べさせてください。」

と、お願いしていました。

007 最終日に明洞に出かけその願いが叶いました(笑)。

009 行ったお店は「元祖」の名がついているこちら。

地元では有名なお店だそうです。

010 お昼時ですが、お客さんがいっぱい。

008 頼んだサムゲタンは、オコゲサムゲタンという、黒い鳥のサムゲタン。

これが本当においしいのです。

マッコリとともに汁をほとんど飲んでしまいました。

あんなにうまいサムゲタンは初めてでした。ブログを書いていても、また食べたくなっちゃいますよ。

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2009年3月 1日 (日)

韓国の蟹料理

学会の後、ルートロニック社のヘイリャン社長から、今回招待講演をしたドクターたちとの会食に呼んで頂きました。

インターコンチネンタルホテルの中華料理でドクターたちと会食していたのですが、話をしてみると、その場にいたほぼ全員の医師が、来週行われるサンフランシスコでのAAD(米国皮膚科学会総会)に参加されるとのこと。

サンフランでの再会を誓った後、僕がタクシーで移動したのは、日本から来た御一行が食事をしているこのお店。

042

ルートロニック社のキム・ナヨンさんお勧めのカニ料理店です。

実は僕、カニに目がないのです。どうしてもここの料理を食べたくて、この日は二度夕食を頂くことに。

これじゃメタボ一直線ですね(笑)。

045 出てきた料理を見てびっくり。この写真を見てください。贅沢だと思いませんか? 見た目だけでなく、味の方も美味しいこと。

「プロカンジャンケジャン」とうい名前なのだそうです。

047 ついでにこのタコの刺身は、生きていて、動いていました。

食べると吸盤が舌に食いつきます。

044 そしてもうひとつ、こちらもキムチが沢山ついた蟹ですが、あまり辛くなく、とても美味しかったですよ。

今回の出張で韓国は7回目となる僕ですが、韓国で頂く料理は毎回本当に美味しくて、何度でもまた行きたくなるんですよね。

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